先々週はなんかいろんなことが辛い1週間で、まず登戸の小学生殺傷事件にものすごくショックを受けたわけですが、そこから始まった「一人で死ね!騒動」に「ほんとそうなんだよ!」と世の中がやや感情的になったところで、農林水産省の元事務次官の父親が「登戸の事件」に揺さぶられて息子を殺害、もう完全に打ちひしがれていたら、 をはじめとする人々の発言に慄き、これはホントにいかんな、私自身頭を冷やして少し整理しなければ……みたいな感じで考えているうちに、原稿が「バタやん(←このコラムの編集担当)すまねえ……」なこんなに遅いタイミングになってしまったのでした。

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さてまず、正直に、本当に正直に。「最悪の凶行の末に犯人自殺」という事件が起こると、私は「死ぬなら一人で死んでくれ」と、つい思ってしまう人間です。すみません、直情型で。やった人間がどんな奴か、どんな理由かなんてどうでもよろしい、何の罪もなく、これっぽっちも関係ないのに巻き込まれて命を奪われた人がいる、その遺族の皆さんのことを思うと、これが怒らずにいられましょうか。

犯罪者の人権を、とか、犯人の更生のために、とかいう論調がすぐに出てくると、なんだか「そうはいっても“覆水盆に返らず”なんだから」と、社会善のために被害者が置き去りにされている感じで、それあまりに気の毒。もし自分が被害者や被害者遺族だったら。社会が一緒になって怒り悲しんでくれることは、やっぱりある程度の(たとえ一時であれ)慰めになるんじゃないかとも思います。

とはいうものの。感情だけに支配されっぱなしでいいのか。だって当事者じゃない人の怒りとか悲しみって移り気で、結局はその時だけ、どうしたって次の事件が起きたらはい終了ってなりがちなんですよね。それはただの条件反射的かつ感情的な処罰感情でしかなく、あんまり発展的じゃない。特にこういう社会的側面――つまり加害者が、社会問題化しつつある“中年引きこもり”であったこと――が大きい事件の場合、各論に同情する思いとは別に、総論として「同じような事件を起こさないためにどうすればいいか」を考える視点を、誰もが持ったほうがいいんじゃないか。私は「“一人で死ね”論争」の口火を切ったは、必ずしも事件への怒りや悲しみと相反するものじゃないんじゃないかなーと思っていたんですね。

この思いを強くしたのは、その後に農水省の元事務次官が息子を殺害した事件が起こったからでした。
そもそもこの事件が起こる前、「一人で死ね」論争の最中に、私が「あら、でも……」と思ったことは、登戸の犯人の目的は本当に「拡大自殺」(誰かを道連れにした自殺)だったのかしら?ということです。だって「一人で死ね!」側の考えは、そもそも犯人が「最後には自殺すると決めていた」ということが前提なんですから。本人が死んでしまったからその真偽はわかりませんが、もし自殺していなかったら? 凶行を起こした末に、犯人は「一人で死んでくれない」わけです。例えば、2001年に起きたみたいに。
(ついでに言えば、この事件でモヤモヤしたのは、本人が「死刑にしてくれ」と言い続け、望み通り死刑になったこと。この場合の死刑は、刑罰として機能しているのかなあ、と)


加害者予備軍の制裁は正義か


そして農水省元事務次官の事件は、まさにこの「一人で死んでくれない」人間を、しかも事件を起こす以前に、加害者予備軍として、殺してしまったという事件だったんです。
思うに、お父さんは暴力によって精神的に追い詰められ、追い打ちをかけるような登戸の事件を目にし、冷静な判断力を失っていたのではないかと思います。息子があんな事件を起こす前にという気持ちはあったのでしょうが、ただ殺すだけでなく、十数か所も刺していたというのが事実なら、それも気になります――何かしらの、感情的な解放があったような気がして。

そして「親としてすべきことをした」という論調があることに、何かすごく恐ろしいものも感じます。たとえば、親が「しつけ」と称して暴力をふるうことへの是認、もしくはその拡大解釈、加害者予備軍への偏見と差別、さらには「加害者=引きこもり」と類型化することの危険性、「ことを起こしてからじゃ遅い」という事前の断罪は、優生保護法みたいな匂いもしますし、よくかんがえたら加害可能性のある人間を事前に次々逮捕するSFホラー映画『マイノリティ・リポート』とそっくり……
……なーんていうどこか高みからの学問みたいな話はやめましょう、あくまで“なんちゃって”な私は、もう少し地べたの、実感の話を。


最近言われている。私の周り、友達の友達、友達の兄弟姉妹、友達の親類などなど、リアルに聞こえてくる話です。

実は2013年に、これ系の社会問題――ホームレスの問題に取り組んでいる方にお話を伺ったことがあります。彼が言うには、当時の厚生労働省が把握するホームレスの数は1万3000人、でもその「河川や公園で寝泊まりしている人」といった定義自体がミスリードで、ネットカフェ、引きこもり、ニートやフリーターといった定職を得られない人たち――つまり5年後10年後、親が死んだときにホームレスになりうる「潜在的ホームレス」は300万人とも言われている、とのことでした。登戸の事件の犯人なんて、まさにこのぎりぎりのところにいる感じでしたよね。

でもって、例えば。引きこもりに限らず、寄る辺ない人たちが犯罪に走りやすい=加害者予備軍と仮定するとして。300万人をそうした偏見で社会から排斥しても、彼らの生活保護などの社会保障費は結局全国民にかかってくる。そりゃ頭に来ますが、だからって「あいつらのせいで!」と排斥するだけでは、両者の断絶は進むのみ。社会保障費も膨れ上がる一方だし、孤独と怒りを深めた「300万人のあいつら」は、それによって凶行に走るかもしれません……という社会で、安心して暮らせます?

もちろんそういう人たちみんなが、事件を起こすわけじゃない。じゃあほんの1%として3万人。その人数に対して、「一人で死ぬこと」や「親の責任」に頼るだけでおっつきます?「6030」でも「7040」でもきついのに「8050」なんて、親も生きてるだけで精一杯の年齢です。親がすでにいない、ただの「50」はどうしましょう?


なんて書いときながら、すみません、正直、私も答えは全然わかりません。でも感情的に反応するだけでは何も解決しない、ということだけは、なんとなく思うのです。ただ、まずは被害者遺族と関係者の方に、思いを。そして、一緒に、その先に。